日本のグローバル化をめぐる議論は、長らく「送り出す」ことに集中してきた。海外留学を増やす、海外赴任を経験させる、外国企業で働く機会を作る、シリコンバレーのような環境で経験を積ませる。いずれも重要な取り組みである。
しかし、シリコンバレーで30年を過ごし、自身が日本への拠点移転を現実的な選択肢として検討する立場になって、この議論には決定的に欠けている視点があると考えるようになった。
海外に出た人材が「戻ってくる」ところまでを含めて、グローバル化を設計するという視点である。
本稿では、個人の帰国検討という具体的な事例を入口にしながら、それが日本の人材・資本の還流、ひいては国際競争力にどう接続するのかを整理したい。
海外生活30年が形成するもの
海外で20年、30年と生活すれば、形成されるのは職歴だけではない。金融資産、年金、投資口座、不動産、銀行取引履歴、そして人的ネットワーク。これらはすべて、その国の制度の内側で積み上がっていく。
米国で長く働いていれば、ドルで給与を受け取り、その一部を株式や投資信託、401(k) などで長期運用するのはごく標準的な行動である。投資に積極的な人だけの話ではない。制度がそう設計されている以上、普通に働けば自然とそうなる。
問題は、そうした生活基盤を持つ人が「日本に戻る」と考えた瞬間に現れてくる。それまで意識する必要のなかった制度上の摩擦が、一気に可視化されるのである。筆者自身、帰国を具体的に検討するなかで、住居や仕事より先に直面したのは、制度の複雑さだった。率直に言えば、「なぜ、これほど複雑にする必要があるのか」と感じた。
論点は税率ではなく、複雑さそのものである
具体例を一つ挙げたい。ただし、これは税務上の取り扱いを解説するためではなく、意思決定の構造を示すためのものである。
1,000ドルで購入した米国株を800ドルで売却したとする。ドルベースでは200ドルの損失である。しかし、購入時が1ドル100円、売却時が1ドル150円であった場合、円換算した取得価額と売却価額に基づく損益はプラスとなり、課税対象となり得る。ドルでは損失、円では利益という、直感に反する結果である。
さらに、長期にわたり分配金を自動再投資してきた投資信託などになると、取得価額と当時の為替レートを遡って特定する作業が発生する。20年、30年分となれば、記録の入手可能性そのものが論点になる。

ここで強調したいのは、税率が高いか低いかという話ではなく、ルールを守るために必要な時間、知識、専門家費用——すなわちコンプライアンスコストの大きさ自体が、人の意思決定を左右するという点である。
そして、より本質的な問題は予見可能性にある。税務上の居住者判定のように、生活の本拠がどこにあるかを実態から総合的に判断する仕組みは、制度としての合理性はあっても、一般の生活者にとっては事前に結果を読みにくい。
- 日本に住宅を購入した場合、どう扱われるのか
- 年に数ヶ月だけ日本で生活する場合はどうなるのか
- 海外資産をどこまで整理する必要があるのか
これらに明確な答えがあれば、コストが高くても判断はできる。だが日本の場合、答えが「ケースバイケース」であることが多いため判断がなかなかできない。不確実性が高いとき、人は合理的にリスクを回避する。その帰結は分かりやすい。
日本で不動産を買わない。長期滞在をしない。日本で働かない。日本で会社を作らない。資産を日本に移さない。そして最終的に——「まだ戻らなくてよい」という結論に至る。
これは制度が悪意を持って設計された結果ではない。越境して生活することを前提としてこなかった制度が、越境する人に適用されているだけである。だが、こうした摩擦が積み重なれば、個人の不便にとどまらず、日本にとっての機会損失につながる可能性がある。
止まっているのは人だけではない
海外で20年、30年を過ごした人材がこうした制度上の摩擦に直面し、日本に戻らないと判断したとき、戻らないのは本人だけではない。
資本が戻らない。 海外で形成された金融資産は、移転コストと不確実性が高いほど、その場所に留まる。日本の不動産やスタートアップ、事業への投資に向かう可能性も低くなる。
経験と知識が戻らない。 グローバル企業での経営経験、海外市場での事業開発、異なる規制環境での意思決定。これらは書籍や研修では代替できない、実務の中でしか蓄積されない資産である。
ネットワークが戻らない。 シリコンバレーで30年活動すれば、投資家、経営者、技術者、弁護士、会計士との関係が蓄積される。日本企業が海外展開する際に不足しがちなのが、まさにこの「現地で信頼されている人間関係」である。帰国者はそのネットワークを携えて戻る。戻らなければ、ネットワークも国境の向こうに留まる。
つまり「人材還流」とは、人の移動の話に見えて、実際には資本・知識・関係資本の移動の話である。
シリコンバレーが示す循環モデル
シリコンバレーの競争力の源泉を一つ挙げるとすれば、それは技術でも資金でもなく、循環の速さである。人は企業間を移動し、国境を越え、成功しても失敗しても次の場所に経験を持ち込む。
この現象を「頭脳流出(brain drain)」ではなく「頭脳循環(brain circulation)」として論じた代表的な研究者が、カリフォルニア大学バークレー校のアナリー・サクセニアンである。彼女は台湾、インド、中国、イスラエルを対象に、米国で学び働いた人材が本国に戻って企業を興し、両地域をつなぐネットワークを形成していく過程を追跡した。台湾の新竹サイエンスパークでは、米国で経験を積んだ帰国人材が数多くの企業設立を担ったことも指摘されている(Saxenian, Brain Circulation, Brookings Review, 2002 / The New Argonauts, Harvard University Press, 2006)。
台湾の半導体、イスラエルのテクノロジー産業、インドのIT産業などでは、海外で経験を積んだ人材の還流が産業発展の一要素になってきた。もちろん、これらの産業の成立を単一の要因で説明できるわけではない。ただ、海外へ出た人材が本国の産業発展に再び関与する循環が、これらの国では確かに観察されている。
日本企業も社員を海外に送り込んできた。ただし日本企業の海外駐在は3〜5年程度のローテーションが一般的で、個人が長期的に現地へ根を張るキャリアとは性格が異なる。帰任後、現地で築いた知識やネットワークを組織や次の事業に接続できた人は、筆者がこれまで見てきた駐在員のなかでも、ほんの一握りである。
日本ではこれまで、優秀な人材が海外へ流出するという議論が繰り返されてきた。しかし本当の問題は、海外に出ることではない。出た人材が戻ってこない、あるいは戻る際のコストが高すぎることである。海外の企業や市場の中で経験を積んだ人材が日本へ戻るのであれば、その海外経験を日本の人的資本として取り込める。そう考えれば、海外への人材流出を一律に損失として捉える必要はない。
企業の人事にも国の制度にも、越境を一時的な例外として扱う前提が置かれてきたのではないか。数年で帰任する前提であれば、現地に深く根を張ることは必ずしも求められない。人生が国内で完結する前提であれば、海外資産を持つ人向けの制度整備は優先度が上がりにくい。日本が住みやすく、国内だけで職業人生を完結できる国であったことが、この前提を長く支えてきた。それは日本の強みだが、同時に、越境して戻る人が設計の中心に置かれてこなかった理由でもある。
「還流を前提とした設計」とは何か
では、何が必要なのか。税率の引き下げではない。必要なのは、越境して生活する人が意思決定できる環境である。
1. 予見可能性の確保
判断が実態に依存すること自体は避けられない。しかし、典型的なケースについて事前に結果が分かる仕組み——例えばセーフハーバー的な明確な基準や、事前照会への実務的なアクセス——があるかどうかで、意思決定コストは大きく変わる。
2. 省庁・関係機関の横断的な連携
帰国を検討する人が最初に直面するのは、税務、年金、社会保険、家族の在留資格、金融口座などの所管が分散しており、全体像を把握しにくいことである。窓口を完全に一元化できなくても、省庁・関係機関の横断的な連携が深まれば、海外から帰国する際のハードルを下げられると考える。
3. 海外資産保有を「例外」として扱わない
海外資産を持つ個人は、今後さらに珍しくなくなっていく。例外的な少数として扱う限り、制度も実務も対応が後手に回り続ける。
4. 段階的な移行を許容する設計
現実の帰国は、ある日を境に切り替わるものではない。数ヶ月の試行滞在、二拠点、段階的な事業移転といった移行期間が必要である。この移行期間が制度的に「グレーゾーン」であることが、意思決定を止める大きな要因の一つになっている。
グローバル化は一方通行ではない
日本のグローバル化は、しばしば二つの方向で議論される。日本人を海外に出すこと。外国人を日本に呼ぶこと。
しかし実際には、第三の流れがある。海外に出た日本人が戻ってくることである。
出ていく人がいる。入ってくる人がいる。そして、戻ってくる人がいる。動くのは人だけではない。資本も、知識も、経験も、ネットワークも、その循環に乗って動く。
日本の国際競争力を論じるとき、私たちはイノベーション、規制緩和、スタートアップ支援といった項目を並べる。それらは正しい。だがその前提として、能力を持った人と資本が国境を越えて日本に入ってこられるかどうかという、より基礎的な条件がある。
海外に出る日本人を増やすことと同じくらい、海外に出た日本人が普通に戻ってこられる国にすることも重要である。日本の次のグローバル化に必要なのは、送り出す政策に加えて、循環を止めない制度設計だと考えている。
参考
- AnnaLee Saxenian「Brain Circulation: How High-Skill Immigration Makes Everyone Better Off」Brookings Review, 2002/同 The New Argonauts: Regional Advantage in a Global Economy, Harvard University Press, 2006(台湾・インド・中国・イスラエルの頭脳循環について)
- 「海外駐在員を『捨て石』にするな」リクルートマネジメントソリューションズ(駐在任期3〜5年と帰任後の処遇について)
- 「Rotation Fatigue in Japanese Companies」Japan Intercultural Consulting(ローテーションが現地組織に与える影響について)
藤本真也|Silicon Valley Japan Lab Founder / Chief Strategist
米国在住25年以上。エンジニアと経営者の経験をもとに、シリコンバレーの技術動向を日本企業の経営や事業開発にどう生かすかという視点から発信している。

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